<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>


2018.08.11 Saturday  どっこい無事です

どうもどうも、どっこい生きてます。

入院初日
血をとるのは失敗するし、点滴も3回失敗するし
見た感じ若いスタッフばかりで、あら不安な私でしたが
いままでした手術の中では一番痛くない!
すごい!わたしげんき!



げんきですよー!!

なんかもう精神的にもらくちんなので
あとでなんか闘病ブログでも書こう。
ネタはあがってんぜ!!

そうそう
今回の入院の私の心の友、PCAちゃんと、
先ほど涙のお別れをしてきました。
私の一番つらい時期を支えてくれたPCAちゃん、本当ありがとう。
君がいなくなってしまうことがとても不安で
昨日は文字通り眠れなかったけど
私はやくラーメン太陽が食べたいから、さっさとリハビリして
こんなところとはおさらばだ!!!!

今日はもう元気すぎて朝っぱらから燃えよ剣を読んでおります。
新選組ツアーでたまたま買った土方歳三ポスターを見た母親が
麻美は土方が好きなの?あんな危険な男!!と言っていましたが
新選組の顔写真で手に入ったのが土方くらいだし・・・・
格別土方が好きという訳でもないあげく、
なんだろうその母親の土方の認識。

そうそう、母親上京初日こそ、白々しいすがちゃんでしたが
今はもう母親にべったりなついたらしいです。
さすが、薄情さだけはぴか一の菅さまでございます。
本当は猫なんじゃなかろうか。
といっても猫なぞ飼ったこともございませんが。


そうそう、今日のブログはとりあえず元気だよ!の
ご報告ブログということで
詳細はおいおい〜。


ほいでは。

またね。





2018.07.19 Thursday  オロナミンCおいしい。

もうここ3か月程
毎朝オロナミンCを買って会社に行き
机に座ってパソコンの電源を入れた瞬間にプルを引く。
という生活をしている。

会社の自動販売機で買った方が40円安いのに
ついローソンで買ってしまう怠惰と贅沢・・・
しかし、今日、なんて悲しいことに
オロナミンCが売り切れいてたので
会社の自動販売機を思い浮かべた後、時計を確認し
まあ、仕方がないと隣にあったデカビタを買う。

かつての私は
毎日のルーティンのうち、
ささやかなひとつでも乱れてしまうと
それはとても大げさに
今日1日が終わってしまったような
つらく悲しい気持ちになったものですが。

と、書いたはものの、
おかしいなあ。
やっぱり何か違う気がする。

※※※   ※※※   ※※※

眼球にみずぶくれ再び。
眼帯は嫌です。無理です。
三半規管が全力で訴えてきます。
ううう・・・・

※※※   ※※※   ※※※

そういえば
音楽活動をストップした頃から
絶対やりとげると決めて
こつこつ頑張ってきた事のひとつが、今月というか
3日程前に終わりました。
長かった…・。

あともうふたつが終わったら
また物を作る生活に戻ろうと
もう何年も前
誰にも言わずに、こっそり決めて
ひっそりはじめて今に至る。

みっつのうちの、ひとつが終わっただけなので
あんまり感慨深さとか、そういうのないけれど
修行のようなものが
やっとひとつ終わったのだなあ。と思うと
やっぱりうれしいものです。

日曜の真夜中
バーチーが遊びに来たので
ラーメン太陽を食べながら
そんな話をした。
全てが終わるまであと少しだー。
そしたら
また音楽ができるよ、ものがつくれるよ。
やばいな、うれしいな。というと
よかったじゃん。とパーチーが笑う。
そのまま今回の手術の話や
入院のあれこれ
万が一のことづけをする。

そいや、俺の職場に
新撰組の隊士の子孫だか親戚だかがいるよ。と言われ
な、なんだと?!と、興奮していると
なんか蔵に火縄銃だかなんだかがあるけど
国宝級のやつで
公表すると持ってかれちゃうから
爺さんが管理してるんだと。
へー、会ってみたい会ってみたい。
言っとくわー。
あ、チャーシューあげる。
あ、もらうわ。
あついな。
あついね。
うまいー。
そうね。
もし私が死んだら
うちにあるもの、もうバーチーに全てあげる。
じゃあエフェクター一個残して
あとは全部売るかな。
この薄情者!!
だって正直邪魔だし、
エフェクター一個で充分っしょ。
いや、蔵作っておいといてよ
国宝になる可能性ゼロだけど。
物置は買うけど別の物置く予定だから無理。
ひどい、、、
あ、進撃の巨人始まっちゃうから帰らなきゃ。
はいはい。
あ、そいや入院の日仕事休みだったから
病院まで送ってやるよ。
うそ?!いいの?!流石バーチーさま!!

そんな話をしながら店を出て
つうかさ、権守フラグ立ちすぎじゃね?
死ぬんじゃね?
なんて言い出すので
た、たしかに、、、と答える。
つうか入院前に死ぬんじゃね?
今日の帰り道とか。
は?!
ほら、権守そういうのもってんじゃん、、
たしかに、、、
なんかあれみたい、君の膵臓を食べたいだっけ?
知らん。
いやだーそんな二番煎じいやだー。
念のため家まで送るわ。
え?!そんなに?!

と、くだらない会話をしながら
久々のバーチーに癒されるのでありました。

※※※   ※※※   ※※※


コメントで頂いた
「風光る。BL要素が多いような。こ
れが、当時の日本では普通だったのか、少女漫画としての演出なのか?」
の件ですが

江戸時代は性に関してとても自由だったそうで
調べてみると、とってもカオスです。
かの有名な、司馬遼太郎先生の燃えよ剣の冒頭からも
その様子は垣間見えるかと。

男色は平安時代からはじまり
戦国時代には、武士のたしなみレベルになったと言われていますし
平成の世を生きる我々の性に対する常識、道徳のようなものは
明治維新以降、宗教や異文化が移入してきてから
確率されていったもののようですよ。

さて、風光るという漫画のBL要素が強すぎる件ですが
少女漫画だからBL要素が強いという事ではございませぬ、
こちら、もちろん史実に基づいているものかと。
局長の近藤さんも友人に
「当節婦人と戯れ候事いささかもこれ無し。局中しきりに男色流行仕り候。なお帰府の上、申し上げたし。」
なんて手紙を出している程。
新選組の屯所では性病も大流行だったなんて噂もありますし
そういったシーンにもしも抵抗があるようでしたら
さらり、読み流してしまわれるのが一番かと思います。

※※※   ※※※   ※※※


先週の月曜日。
入院前検診の担当の人に
「手術内容の確認ですが、今回は卵巣摘出ってことですが」といわれ
えええー!私は部分だけ切るって聞きましたが・・・!
「え、でもこの手術内容だと全摘出ですよ?」
私、今回腫瘍とってもまた出来る可能性があるってきいて
開腹手術を何度もするよりは取ってほしいって言ったんですけど
先生に、年齢的に摘出はやめましょうって言われたんですが・・・・
「いや、だってあなたの場合・・・
卵巣と大腸がくっついてるっぽいから
摘出以外は無理ですよ?」
え・・・・?
そうなの・・・・?
はつみみ・・・・!
「私は担当医じゃないんで、紙に書いてあることしかわかりませんが、、、」
そうですよね、、すみません、、、、
「当日先生に確認してみて下さい」
は、はい、、、え、当日?!そういう感じ?!

続いての説明は麻酔科。
「この麻酔方法で手術すると言われてると思うんですが(以下略)」
き・・・きいてないです・・・・

思い返せば
入院の日取りを決める時
会社のこともあるので、早めに確定日付が知りたい旨伝えると
3日以内に確定するから連絡する。と言われるも
まったく連絡がなかったので電話確認。
看護師さんは良くわからないけど多分大丈夫というあいまい具合・・

で、そこから3か月後の2週間前。
いざ入院前検査で採血、心電図、なんやかんやと撮り終わった後の診察室。
「その日手術無理なんで、別の日で!」と言われ
えええー!私、変更になる場合は連絡欲しいって言いましたよね・・・・
と、いうと
めっちゃ貧乏ゆすりをしながら
「最近決まったんで」とイラっと吐き出す担当医・・・
そうしたら、お正月とか、9月の連休とかに変更したいんですけど・・というと
「ああ、先延ばしでも良いですけど、今迄受けた検査全部やり直しになりますね」とバッサリ。
だったら!せめて!今日の検査の前に言ってホシカッター!!

検査やら何やらで4日くらい仕事休んで・・・
うーん・・・・やり直しか・・・・
まあ致し方ない・・・・
というかもう別の病院に変えたくなってきたばい・・・
と、思っていると

「今すぐいつにするか決めてもらえます?」との圧が・・・・

会社に確認してきます・・と言って診察室を出て戻ってくると
「あ、やっぱり日程通りで大丈夫です、他の先生がやることになりました」
えええー!そしたら、すみません、もう一度会社に・・・と言って
診察室を出て戻ってくると
「ほかの患者通しちゃったから、ちょっと待ってて」
は・・・はい・・・・
「来週あたりに検査前検診と麻酔科の説明聞いてもらって、
このあと受付で入院の書類書いたりしてください。」
はい・・・・と、答えると、その後無音。
「あ、診察終わりましたんで」と、看護師さん。
あ、あの。。。。診察の予約票とかってこの科は頂けないんでしょうか・・・
と、恐る恐る言うと
「あれ?出してなかったっけ?」という具合、、、

もう・・・おいどん怖いでござるよ、、、、

FU/A/N

こうご期待!!

※※※   ※※※   ※※※

そして今年もセブンイレブンで北極を買い占める。
青唐辛子を買い占めて調味料をつくる。
でも食べるのは我慢。
実は胃がやられているのを知っている。
胃潰瘍の時と似たような症状が出ているのである。。。

もうあかん!!!

世界に向けて、かんぞくばら!!!


またね。




2018.07.18 Wednesday  自分自身は何も持っていない事を一つずつ理解していくための

極限まで冷房をつけない派のくせに
7月中にエアーコンディショナーのボタンを入れてしまった私ですが
みなさまいかがお過ごしでしょうか。

昨日の入院前検診で
「煙草やめないと手術出来ないよ
アイコスもだめだよ。」と言われ
慌ててVAPEを買ってきました。

バイト先で、使い方がわからず、うだうだ言っていると
近所のフィリピンパブで働くフィリピンの男の子が
「店長、やってあげるよ」と
瞬く速さで英語の説明書を読み上げ
日本語で「こうするんだよ」と教えてくれた。
おおー。すごいすごい。
しかし
うむ
これでやめられる気がまったくしないんだが・・・・と、うなっていると
隣の店の店長が
「もうさ、それ買ってる時点でダメだよね。やめる人ってスパっとやめるよね。」

ごもっともです・・・・

※※※   ※※※   ※※※

日曜日は、去年くらいから仲良くなった
1つ年上の八王子出身の先輩ズ
(先輩たちは幼馴染)
(自転車多摩湖ツアーの面子)と
マッスルモンスターに行ってきました。
巨大アスレチック的なやつです。

最初はあまりの高さと強風に
む・・・無理かも…・と思いましたが
元々高いところと火が好きな私。
やばーい!たのしー!ひゃーーー!!と
大変ご機嫌でした。

お陰で、とっても日焼けし、二日程筋肉痛・・。
この二人と会った後は、概ね筋肉痛な気がします・・・。

※※※   ※※※   ※※※

2.3か月ほど前に引っ越してきた
高校を中退した高校生の年齢の男の子。

ホストを目指していたけど親に止められたとか
寮生活が合わなくて高校を中退したとか
そういったことを不動産会社から聞いていて
五月蠅かったらすぐに苦情を出してくださいと言われるも

私も楽器を弾くし、お友達のたまり場になる事も多く・・・
ご近所様には、もろもろご迷惑をお掛けした記憶もあり・・・
多少うるさくてもお互いさま!と思うし
自分から苦情は絶対に出さないと決めていたし
引越したての週末なんて、そりゃあ、友達を呼んで騒ぎたいわよね。
高校生がお酒なんて、なんて言えるわけないよね、みんなやってたでしょう、こっそり。
と、思ってはいたものの
ごめんよ少年。
おばちゃんは朝7時半に起きて仕事に行かないといかんのだ。
毎日4時間睡眠、1日一睡出来ないと、一週間が辛くなるのだ・・・。

と、いうことで

いつもの様に、仕事を終えて、バイトを終えて家に帰ると
二階の窓から道路に向けて、マーライオンしている少年が目に入る午前2時。

おいおいおい・・・・
こいつは今日もヤバそうだぜ。と思っていると
それは想像をはるかに超えた五月蠅さでびっくり。
あかん。こいつは眠れぬぞ・・・・と思っていた朝6時。
近所の誰かが警察を呼びなすったようで。
しかし、まっすぐ歩けない程酔っ払った少年は
いろんなものをなぎ倒し、壁やドアにガンガンぶつかりながら
「すみませんでしたー!!!うちの組のもん呼びましょうか?警察とか糞なんで!!」
「すみませんでしたー!!!!」と怒鳴り散らしているのであります。

こいつは・・・あかん・・・

警察が帰った後は
おいてめーのせいだろうが!!どかん!がしゃん!ばーん!!

う・・・余計あかん・・・・

と、今度は私が警察に電話する朝7時。

その後も変わらぬうるささを発揮する少年たちに
また別の誰かが警察を呼んだようで
怒鳴り散らす少年の声をBGMに、うとうとうとうと・・・。

朝8時、色々諦めお風呂に入りながら不動産会社に電話。
さすがに・・・あれはあかん・・・と伝えると
すぐに折り返しの電話。
「今、ご両親と警察がそちらに向かっているので家に居て下さい」とのこと

いや・・・・わし、仕事・・・・・
と、思いながらも、会社に隣人トラブルで遅刻するとメールを送り
いざ、ご両親とご対面。

顔を合わすなり
深々と頭を下げられ・・・
誠に申し訳御座いませんでした・・・と一言。

観た年齢よりも髪の毛が白いのは、きっとそういうことで
あくるひの自分の両親と重なり
何かフォローを、、、フォローを、、、と思っていると
当の本人は急性アルコール中毒で運ばれ
アパートは強制退去になるとのお話。

「あなたが、2回、警察を呼んでくださったんですよね?」と、母親から訊かれ

ああ、なんかこれ、私がダメなやつだ・・・と気づく頃には時すでに遅し。

いたたまれない気持ちで1週間を過ごし
散髪に行こうとアパートを出る、土曜の正午。
隣の少年が母親を怒鳴り散らす声が聞こえます。

ああ・・・・なんだかな・・・・。と、思いながら散髪から戻り
バイトへ行く支度をしていると
待ち構えていたかのように鳴るのはドアーベル。
その先には、隣の少年のお母さんが立っていた。

引越しのご挨拶とのことで
何か言葉を探していると、あ、そういえば。と
「先程、怒鳴り声が聞こえましたが、大丈夫でしたか?」と訊くと
そこから始まる、お母様の愚痴タイム。

ほら、最近息子が親を刺した事件とかあるでしょう
私たちもいつか刺されるんじゃないかと思って。
もう私たちじゃ手に負えなくて・・・
社会に出れば、誰かが叱ってくれたり、鼻を折ってくれたりするでしょう?
最初ここの大家さんに、隣が女性だと聞いて
もっと怖い男の人だったら良かったのにと思って・・・・
息子も、警察呼ぶ前に直接注意しに来て欲しかったって言ってましたし・・・
引っ越した後、何度か挨拶に伺ったんですが、ずっとお留守だったじゃないですか?
あの時顔を合わせていたら、絶対こんな事になってなかったと思うんですよ。
そうそう、友達関係も、昔は良かったのに
今じゃどんどんおかしな人たちと繋がって行って・・・・
あ、でも次のアパートも見つけたので
そこではおとなしくしてくれると良いんですけどねえ

と、一通りお母様が話し終えたのを訊いて絶句状態の私が
どうにか言えた精一杯の嫌味は
「こうやってお話しさせて頂いた限り、ご両親はとてもしっかりされた方々なので、
きっと息子さんも大丈夫だと思いますよ。」
だった。

まあ、
これが嫌味だと気づくこともないだろう人なんだろうな。と
なんだかとてもやりきれない気持ちで、
わたしはバイトに遅刻するのでありました。

※※※   ※※※   ※※※

新選組にハマってはいるものの
好きなの?と訊かれれば
ううむ・・・それとは違うかな。と思ってしまうし
どこがどういいの?と訊かれれば
とても上手く答えられない状態なので
手持ちの言葉で正直に言うと
ただ、ただ、とても興味がある。という、ただそれに尽きる訳です。
語れるほど詳しくもないですし(おい、先日のブログは何だったんだ?)
まだ消化途中なので・・・いかんせん・・・・

ただ、新撰組という過去実在したと言われる団体にハマってみて
歴史の楽しみ方を見つけられたといいますか。
かつて、実在していた人たち、場所、ものごと、が
今の自分では想像も発想も出来ないようなルールの上にあった。
でも、それが同じ人である。という三連が
ハマるきっかけだったのかな。と。

例えば。
前回の、日野新選組ツアーで一番ぐっときたのは
とんがらし地蔵。だったんですけども
1766年、今から252年前よりある地蔵が
今もこうやって眺めることの出来る状態にあることや
252年間、さまざまな人の目にさらされ
かの沖田総司もお参りをして居たなどと訊けば
ああ、本当に彼らは実在していたのだなあ。と
なんとも不思議な気持ちになるものです。

あと、跡地ですね
試衛館跡もそうなんですが
今はもう何も関係ないものが建っているし
ただ、そこにかつて、あったかもしれない。と言われるものですが
今に至るまでの風景の移ろいなぞ
誰一人として見た人がいないというところがまたいい。
そして、その地面の上には、色々な歴史やドラマがあったという事実があると思えるところが良い。
そりゃあもちろん、
今こうして座っている場所にも何処にもあるわけですが
それを知る方法なんてどこにもない訳で
でも、歴史上の人物が残した物ものにより
記されたその場所には、それを想像する可能性があることにも、ぐっとくるわけですね。

だったら別に新撰組じゃなくても良かったのではないか?と、言われそうですが
先に書いた通り
うん百年前という、想像しがたい環境下で
新撰組という組織は、
私が素通りしてきた程度の歴史の登場人物の中で、(つまり、ほぼ良くわかってない)
もっとも(といっても、他は・も、良くわかってない)私の
理解と想像が触れられるところにあった訳です。

うーん。
なんか違うな、書けば書くほどなんか違う。
から、この件は一旦放置でお願いします。

まあ、とりあえず京都の次は
柏尾古戦場跡へ行って
会津藩士・柴田八郎謙吉の墓と地蔵院に寄って
もはや見飽きた甲府城を巡ったあとは、
植木屋平五郎宅跡(東京都新宿区大京町29)から
今戸神社(東京都台東区今戸1−5−22)に行って
元麻布 専称寺を通って
フライングで行っちゃったけど、もう一度板橋に行って
最後に五稜郭の予定です。

※※※   ※※※   ※※※

とりあえず8月7日入院
8月8日手術です。

ちょこまかしよう。

またね。




2018.07.12 Thursday  てろてろしてる。

眼球が治ったと思ったら風邪を引いて
風邪を引いたと思ったら胃腸炎になって
そうこうしてたら入院と手術の日も決まって
わっちゃわっちゃわっちゃわっちゃ。

とりあえず、何かあったときのために
バーチー出動要請の申請をしておかねば。
遺品整理は親ではなく、
ぜひバーチーに行って頂きたいところ・・・。
といっても、見られて困るようなものは何もありませんが。

京都に一人旅に行くべく
それはもうずっと京都の地図を眺めております。
ええ、もちろんめぐるのは新撰組関係のみです。
でもちょっとミーハー心が出て、稲荷伏見には行きたい。
えへへ。

ちなみに京都一人旅は、手術のご褒美の予定。
まあ、無事退院できればですよ。予定日までに、、、。
合併症なんて糞くらえです。
延長入院程滅入るものはありません。
特に腸閉塞。怖いよ腸閉塞・・・・・。

久し振りに、
血液検査で血を5本程とられてみて
「ああ、そうだ、入院ってこういうのが毎日あるやつだ・・・」と思いだし
なんだかとっても嫌な気持ちぞわぞわ。
ああ、億劫です、億劫。
ああ、痛いの嫌だな・・・。
もうまな板の上の鯉へのカウントダウンははじまっている・・・!!
くっっっ!!!

のらりくらりで居ようとこころみたり
てきとうなふりをして出来なくて結局ひっしこいてみたり。
久し振りに見かけた後姿にギクっとしてみたり
ああ、寝癖位直してくればよかったな。とかね。

ちょこまかちょこまか
面倒な話だったり
いらっとした話だったり
チクっときた話だったり
気づけば全部つながってしまって、
ああ、いやだわ。
わたし、きちんと人間のかたちをしているかしら。


結構あけっぴろげなのよ。
べろんべろんびろん。

久し振りにピロウズとか聞いたら
ほっこりほっこり。

今はまだ余計な事は書かないでよろしの時。


よろし。


またね。




2018.06.20 Wednesday  ほんとうの名前なんて忘れちゃったとサリーが言った。

眼球に水ぶくれができた日曜日。
コンタクトしても、凹凸の間に空気が入り込むのか
すぐに外れてしまうので
おおおおー、おもしろーい。
コンタクトは涙の表面張力によって引き寄せられるって聞くから
あんまり凹凸は関係ないのかと思ってたー!

と、わきゃわきゃしつつ
冷静になり
あれ、これ、まずくないです?

休日の病院は高いけど、そんなことは言っておられんので
急いで休日診察している病院を調べ、タクシーに乗り込む。

しばらくコンタクト使用不可!とのことで
メガネ・・・そろそろ作るか・・・と
眼帯姿で街へ出れば
あれ・・・なんか非常に具合が悪いぞ・・・・。
三半規管弱い所為かしら。と思っていたら
ただの風邪でした。

ここ1年とても体が弱い・・・。
と思ったけど
思い返せば健康だった時の方が少ない様な気もしないでもない・・・。

あれ?おかしいな・・・・。

※※※   ※※※   ※※※

新スタッフ、ニューハーフちゃん。
最初はどうなることかと思ったものの
最近は仲良く楽しく働いている。

お客さんから立て続けに
私の方が老けてると言われたことに味をしめ
仕事中は私の事をお姉ちゃんと呼びます。ので
「お兄ちゃんうるさいよ」と返していたところ
「なんだよおばさん」といってくるので
「なんだよ、くそじじい働け!!」という具合に
中々私も言い返せるようになってきました。
(低レベル

履歴書にさえ年齢を書かず
制服着用も拒否し
洗い物をお願いしたら嫌だと言われ・・・
つわものっぷりを発揮していた初期が別人のよう。

お客さんからも、
あの子働くねえ〜。と、好評化。
うんうん、うれしいうれしい。

わたし店長にはめっちゃ気をつかってるんですよ
今迄こんなに気を使って働いたことないもの!!というので
えええー!気を使ってくれてたの?!気づかなかった!!と、言いましたが
充分気を使って頂いていることは知っていますとも。

※※※   ※※※   ※※※

日曜日、試衛館跡地に行ってきた。
私の家から少し出たところにある早稲田通りを
まっすぐ会社方面に進んだ途中
少し裏路地に入ったところにそれはあった。

ビルと民家の間の細い道の脇にあったのは
美術館に生えている木の横にある「かえで」やら「まつ」やらの
立札程度の申し訳なさと同じ具合のそこには
「試衛館」跡。と言う文字と、簡単な説明だけが書いてあった。

記念に写真を撮っていると
そこにいた棒振りのアルバイトの人が
「ここってそんな有名な何かなんですか?
ただのビルと民家の間ですけど・・・
今日一日だけで、随分な人が写真だけ撮って帰っていくから気になって・・」と言うので
思わずくすりと笑ってしまった。

試衛館というのは
新選組局長の近藤が四代目とし
総長の山南、
副長の土方
一番隊組長の沖田に
二番隊組長の永倉。
六番隊組長の原さん、八番隊組長の藤堂、十番隊組長の原田が出会い
門生、食客として集まった場所と言われる道場。

そんな場所に立ったものだから
滾りますなあ。とひとり満足げに家路へつくのでありました。





※※※   ※※※   ※※※

昔働いていたbarに顔を出した時
どこぞのアニメ会社の人が来ていて
丁度隣り合って座ったこともあって
その人の話をうんうん訊くことになった。

大手から独立してアニメ会社を立ち上げたが
何本か失敗してすぐ会社を潰してしまったと言っていた。
「アニメをつくるものは
心が弱いものが多い。
アニメを心のよりどころに生きてきた
弱い弱い人間が多いのに
それを寄ってたかって2ちゃんねるで叩くなんて
消費者はどうかしている」と言っていた。

なるほど。

※※※   ※※※   ※※※

ふ。と、思い立って
お絵かきブログでも始めようかと思い
ぽてんとお気に入りのジェルボールペンを手にとってみたものの
あれ、おかしいな。
人間の形が描けなくなっていて、びっくり。
その時、
もうずいぶん弾いてないピアノやギターの事を思ってぞっとした。

※※※   ※※※   ※※※

それではみなさまよい週末を。




またね。




2018.06.13 Wednesday  権守的新撰組まとめ

コメントで新撰組の事があったので
ちょっと今日は全力で新撰組しようと思います。

新撰組関係でとりあえずよみなはれ。と言われているのは
・燃えよ剣-司馬遼太郎
・新選組始末記-子母澤寛

燃えよ剣は土方がとにかく格好いいらしいです
(まだ上巻読み途中)
新選組始末記は、子母澤寛が隊士の嫁や妾、子孫やら
縁やゆかりのある人々に直接インタビューして書かれたものとのことで
読む価値必見だそうです。
(まだ6ページ目)

NHKドラマの新選組!は
個人的には史実と異なる点も多く、あまり・・・・
ですが、周りは面白い!という人が多いのでとっかかりには良いかもしれません。

漫画は風光るしか読んでないのであれですが
風光るはフィクションとノンフィクションが上手く同化していて読みやすいです。
(少女漫画なので、組み込まれたラブコメテイストが苦手な人はだめかも)
(しかもまだ未完結で単行本は41巻目。本誌は甲陽鎮撫隊のところ。)

※※※   ※※※   ※※※


そういえば、新撰組ツアーを企画した際に作ったしおりに
新撰組について説明したページがあるので
コピペしてみようと思います。

誤字脱字はご愛嬌です。
興味ある方はどうぞ〜


※※※   ※※※   ※※※




新撰組って?

新撰組(しんせんぐみ)とは、
江戸時代末期(幕末)に、京都において
反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち
旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織のことです。

明治時代は、
新選組と敵対していた薩長出身者が政治の実権を握っていたこと、
皇国史観の影響により、賊軍となった新選組を否定する風潮が強く
遺族は遺品の所有さえも禁じられてており
今に残る物も少なく、史学的な研究も遅れたため
未だに憶測の域を超えない点が多く、
自分なりに史実を探っていく事も魅力の一つと言われています。

上のような理由から、悪役・敵として描かれることの多かった新撰組ですが
昭和3年(1928年)に『新選組始末記』(子母澤寛)、
『新撰組史録』(平尾道雄)が刊行されると、
新選組は再評価され始めたそうです。

---------------------------------------------------------------------------

メンバー紹介


新撰組の主要メンバー
【局長】
◎初代 芹沢鴨(壬生浪士組時の初代筆頭局長。)
壬生浪士組内の派閥、水戸派を率いていた人物。
大柄で太っており、色白で目が小さい(出回っている、痩せ型男の写真は別人とのこと)。
常に酒を呑み、短気で粗暴、かんしゃくを起こし、すぐに揉め事を起こす一方で、
教養もあり、情にも厚い人物であったため、隊内での支持も厚かった。

◎二代目 近藤勇
近藤周助に天然理心流の剣を学び、養子となり試衛館(道場)の4代目を継ぐ。
門弟として集っていた
土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、
食客の永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一らを率いて浪士組に入隊。
15歳の頃に父の留守に家に強盗が押し入り、日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとした兄を
「賊は、入ったばかりのときは気が立っているものです。むしろ立ち去るときの方が気が緩み、心が留守になるからその隙に乗じましょう」と
言って止めたという。
賊がめぼしいものをひとまとめにして逃げ出すとき、勝太は兄と共に飛び出し、不意を付かれた賊は、まとめた盗品を投げ捨てて逃げ、
それを深追いしようとした兄に、「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったのだし、放っておきましょう」と言い
このことが世間に渡って評判となり、剣の師匠の周斎に養子を望まれるきっかけになったと言われている。

暇があれば刀剣の話をし、
妻を「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい」という持論で選んだ。が、妾は美女勢揃いである。

永倉から「蛮骨をもって鳴らしただけ、おうおうにしてわがままの挙動」と言われる一方で
「温厚な人物で、けっして無鉄砲に乱暴を働くような男ではなかった」
「非常に愛嬌があり、村の百姓たちにも、いつもにニコニコ笑っていた」
「私たちに逢っても、なにかしら言葉をかけてニコニコして見せる。無駄口は利かず立派な人」と
隊の者以外からの評価はマイルドなものが多い。

【幹部】
◎新見錦(壬生浪士時代の幹部。局長にならぶ立場だったとも言われている。)
史料が少なく多くのことが推測の域を出ない、いまだに謎の多い人物。
芹沢と同じく水戸派の人間。素行は芹沢よりはるかに悪かったと言われる。

【副長】
◎土方歳三
局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、
隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れらた。

生家は「石田散薬」という家伝薬を副業とする旧家で、
「お大尽」と呼ばれる裕福な家で育ち。
11才の時、上野の「いとう呉服店」へ奉公。
しかし、些細なことで番頭と喧嘩になり、40キロメートルもある道をテクテクと歩いて家に戻り
家のものがいくら説得しても、店には戻らなかったという。

17才の時には大伝馬町に奉公。
イケメンでモテモテだった土方は、今度は、職場で女性がらみのトラブルを起こしてクビに…。
家でフラフラしているわけにもいかない土方は、
家伝の秘薬「石田散薬」の行商販売を開始。
行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。
販売だけではなく、土方は原材料刈り取り指導もし、
当時からリーダーシップに富み、彼が作業をすると早く終わると評判だった。

浪士組、新撰組の副長となってからは
策士として近藤を支え、実際の指揮命令は近藤ではなく土方から発していた。
また、他の隊士たちとは違い、大砲や銃などに刀では勝てないと
洋式への取り組みも柔軟であったという。

最後に、土方と言えば俳諧。
彼は豊玉という名で句を詠むという風流・シャレオツな一面もあった。が
あまりに下手くそだったため、小説等では、よくよく沖田等にバカにされる場面が出てくる。
「しれば迷ひ しらねば迷はぬ(ふ)恋の道」
「報国の心ころわするゝ婦人哉」(意味:京都で俺持てまくってヤバい)などの下手な句をうっていた土方も
函館の地に到着する頃に、彼が最期に詠んだ辞世では
「たとえ身は蝦夷の島根に朽つるとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」と成長を感じるところです。


【組長】
◎一番隊組長 沖田総司
一番隊という、新撰組でも特別難しい任務等をこなしていた隊の組長。
幼くして父と母を亡くし、その後姉のミツが婿養子を迎えて沖田家を継いでおり
親戚の新撰組六番隊組長・井上源三郎から剣術の素質を認められ、
天然理心流の「試衛館」に入門し、近藤周助の弟子となった。
入門から10年経った総司の並外れた剣術の腕前から、試衛館のトップとなり
その剣術の腕前は、沖田と対戦すると誰もが子供同然に扱われる程だったそう。
若くして結核で死亡。

剣術の稽古時は鬼の様に厳しく、恐ろしかったとされますが
陽気で明るく愛想の良い好青年としても語られ、大人になっても近所の子どもたちと仲良く遊び
普段から冗談を言って回っていたことで知られており
近藤・土方など新選組についての酷評で知られる西村兼文ですら、
山南と並び沖田についても批判を残していないとかなんとか。

新撰組の中でも写真が1枚も残っておらず、
”村絖普段は冗談めいた性格なのに、めっちゃ強いギャップ萌え!!
と、いうことで
世の女子の妄想を膨らませ続けた結果土方と並ぶ女子にとても推される人物。
剣術の師匠でもある新撰組局長・近藤勇へ、高い尊敬心を持ち続け
将来の日本を良くしよう!などの政治的ポリシーは無く、ただひたすら近藤勇のために剣を振った。


◎二番隊組長 永倉新八
松前藩の江戸屋敷詰め藩士の家に生まれ、7歳で剣術を習い始め18歳で脱藩。このとき後ろめたかったのか、
独立を示すためか名字の「長」の字を「永」に変える。

一度武者修行に出るも、再び江戸に戻り、とある道場の師範代を務め、その後縁あって、試衛館で近藤らと知り合う。
「結成当初からのメンバー」というといかにも近藤や土方に心酔していそうな感じもするが、永倉は違い
近藤たちに専横の兆しが見え始めた頃、これは「隊員は同志であって家臣ではない」と考えており
原田左之助らと共にボスである会津藩主・松平容保に訴え出たりもしている。

鳥羽・伏見の戦い以後、大坂、江戸などでは土方歳三が不在時には隊長代務をこなすなど、土方からの信頼も厚かった。

新撰組の数少ない生き残りで、近藤勇の墓の建立、新撰組の復権につとめ
晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通ったとされ
「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と
感慨の旨を語っていたという。
またある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれたが、
鋭い眼力と一喝で退散させた(手拭で戦った、杖を持っていた、道端の棒切れを拾って構えた、という説もある)というエピソードも残っている。

俺すげー、俺つえー本「新撰組顛末記」を出版している。

◎三番隊組長 斎藤一
その出自や活躍については虚実入り交じり、新選組隊士の中でも特に謎の多い人物。
19歳の時、家督を継いだばかりの若い旗本で、
斉藤と同じ道場に通う同輩に真剣勝負を申し込まれた。
勝負は立会を入れた正式なものだったが斉藤はその時初めて人を殺した。

新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢され
のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務め
「斎藤一の剣は無敵の剣」といわれ、
実戦においては天才・沖田総司より強かったのではないかという声もある。

新撰組の中ではスパイとしても有能で、
永倉と同じく、数少ない新撰組生き残り。
戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。明治維新後警視庁の警察官となり、
西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。
退職後、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の守衛、
東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務める。

以下割愛〜

◎四番組組長  松原忠司
◎五番組組長  武田観柳斎
◎六番組組長  井上源三郎
◎七番組組長  谷三十郎
◎八番組組長  藤堂平助
◎九番組組長  鈴木三樹三郎
◎十番組組長  原田左之助

【二番組組頭】 
◎ 伊東甲子太郎
【五番組組頭】
◎尾形俊太郎


---------------------------------------------------------------------------


もうちょっと詳しく!
それではここから
歴史・世界史・日本史は常に赤点だった私が
色んなサイトやら何やらの文面や知識を借りつつ
知ったかで新撰組の歴史を語ります!

新撰組の元となる、浪士組が出来たきっかけは、
将軍・徳川家茂の警護を目的とした募集でした。

当時、日本は鎖国やら何やらで、
海外とはあまり仲良くなく・・・
ところがどっこい、ある日ペリーさんが黒船に乗って来日!!
急展開!!
日本人の得意技「秘儀!閉鎖的!」を発揮する中
ペリーさんは我々のご先祖さまたちに
「開国しろよ、なあなあ」と迫りました。
黒船を目の当たりにして、
もうそれは弱気な我々のご先祖さまたち
ペリーさんの要求をうっかり受けてしまい、
日本はタイタニックならぬ大パニック!
当時日本をまとめていた徳川幕府に、
侍たちの不満がBAKUHATSUしました。
今も昔も変わらず長いものにまかれて生きる私たちが持ち続ける
「上が悪いからダメなんだ!!」思想を
現代の我々より、
ハングリー精神の高かったご先祖さまたちはフルに発揮し
「徳川幕府には任せてられぬ!おいどんたちで国を作るんや!!」と
当時の日本で一番偉い、天皇のいる京都へ集まり
「天皇とともに新しい国を作り、海外との交流を排除してやんぜ!!」と、
京都の町で暴れる訳です。
ちなみにこの思想を、尊王攘夷と言いますね。
(まあ、私はそんな歴史的スローガンの存在も、
つい3日前まで知りませんでしたが…)
そして、そんな荒ぶるご先祖様たちを尊皇攘夷浪士と呼びます。

そんな京都と徳川家を
荒ぶる尊皇攘夷浪士から守るべく必要な人材=浪士組を集めるべく
尊皇攘夷論者だった清河八郎が出した結論は
「頗る腕がたって、意図を汲み取るレベルの脳みそもった人材が欲しい」
ということで・・・・・

浪士組参加条件は
・今まで犯した罪を免除される(大赦)        
・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)
このふたつ。

腕に覚えがある者であれば、
犯罪者であろうとも農民であろうとも身分を問わず、
連例を問わず参加OKだぜ!!
というもの。

雑だなあ・・・・。と、思いますが
当時にしては画期的な策と言われたそうですよ。



そんなわけで、浪士組として集められた
腕っぷしに自信があり、
喧嘩っ早くてちょっと賢い田舎出身集団は、
江戸より京都を目指します。

が、しかし!!
本来の目的は将軍・徳川家茂の警護を目的とした募集。
だったはずが
京都に到着するとそれぞれの思惑が明らかになります。

ちなみに、ここで、
当時の思想紹介。

***   ***   ***   ***   

【内政】
佐幕:幕府を佐(たす)ける。幕府支持。
公武合体: 天皇(朝廷)と幕府が協力して政治をすればいい
尊王:天皇を敬う。当時の知識階級では倒幕派か佐幕派かにかかわらず常識。
勤皇:天皇を敬い、かつ積極的な行動を伴う
【外交】
攘夷:夷敵を攘(はら)う。ペリー追い払い隊
開国:鎖国をやめ積極的に貿易を行うことで日本を発展させようとする考え。

***   ***   ***   ***   

内政外交を組み合わせて
「佐幕開国」「佐幕攘夷」「尊王開国」「尊王攘夷」派。と呼んだりする訳ですね。

まあそもそも、
倒幕運動をしていた清河八郎の呼びかけという時点で
胡散臭い訳ですが、そこに気づかないのが浪士組。


まんまと京都まで来て目にした現状がこちら!!

***   ***   ***   ***   

●本来の目的:浪士組(公武合体/尊王攘夷佐幕)
・攘夷のために上洛する将軍を警護する
・幕府がついに攘夷を実行しそれに参加できる
・幕臣に取り立てられる可能性がある
・お金がもらえる

***   ***   ***   ***   

●浪士組が守る人:幕府閣僚(公武合体/尊王開国佐幕)
・攘夷と銘打ってるが現実的に不可能だと思う・・・
・とりあえず将軍が無事であればよい
・でもま、京都の浪士を鎮圧できてラッキー
・江戸から浪士がいなくなってラッキー

***   ***   ***   ***   

●浪士組を集めた人:清河の思惑(尊王攘夷倒幕)
・朝廷の名のもと自分主導で攘夷を決行する
・攘夷決行の部隊は幕府の金で集める
・将軍の警護なんてどうでもいい
・してやったぜ!!!!!!

***   ***   ***   ***   

と、いう訳で
浪士組は、自分たちが騙されていた事を知るわけですが
浪士組に参加した大部分は、清河に従いました。
尊皇攘夷という思想そのものは、当時、ごく常識的なもの。
しかも、
貧乏田舎っぺ浪士たちにとって重要なのは
・雇い主を得る事、
・混沌とする幕末の世に、自分の力を役立てる場を見つける事
なので、目的が将軍警護だろうと尊皇攘夷だろうと、
おいどん、前科あるし、こんないい話滅多にねえよ・・・
もうさ、仕事があって、お金もらえれば、ぶっちゃけどっちでも良い!
という人が殆どだったのです。

加えて、清河八郎は、
北辰一刀流の免許皆伝を得て、江戸の学問所でしっかりと学び、
学問と剣術の両方をひとりで教える塾を開いていたような、マルチな才能の持ち主でした。
そんな清河の演説は、浪士たちのそんな願いに対して強い訴求力があったのでしょう。

しかし!!そんな清河の口車に乗ることなく、当初の目的である将軍警護を遂行する!と、
京都に残留する勢力がありました。
それがいわゆる京都残留組、芹沢たち水戸一派、近藤勇たち試衛館一派、
そして、殿内一派などの数名の人達です。

ということで、浪士組は
京都残留組(水戸一派・試衛館一派。殿内一派など)
清河組(なんでもいいから仕事くれ派・清河に騙されちゃった派)の二手に分かれます。


この清河の行いは、幕府にとっても許しがたい裏切りなので
幕府は、口実を設けて、清河組を江戸に呼び戻し
清河は、江戸に戻ってすぐに、何者かに暗殺されます。
清河の同志達も次々と捕縛されたため、
清河組は、組織目的を失い、彼らにNEETの危機が訪れますが
翌年、庄内藩御の預かりとなり「新徴組」に改編されます。

さて、その頃、京都残留組はというと・・・・
壬生浪士組と名乗り、会津藩に許可をもらって、
町のパトロールをするようになります。
こちらの壬生浪士組、同じ志で結成された組な筈…でしたが
芹沢派と近藤派で分かれ、
拠点である屯所も、沢派は八木邸、近藤派は前川邸の世話に。と
2か所に分かれていました。

そんな具合の中、隊員も募集し、少しずつ大所帯になり
この辺で隊規や役割を決めようと!と、いうことで
割り振られた初代の役割がこちら。

***   ***   ***   ***   

筆頭局長 芹沢鴨
局長 新見錦・近藤勇
副局長 土方歳三・山南敬助

***   ***   ***   ***   

まさかの局長は3人、、、、
その中で「筆頭局長」は芹沢鴨となりました。

そして、そこからおおよそ3か月後、新撰組がSUCCeSS!!します。

当時、力を持っていたのは、尊王攘夷派の長州藩。
それを邪魔に思っていた公武合体派の薩摩藩は、
同じ公武合体派の会津藩と手を組み
「長州藩が幕府に反抗的でウザいから、京都から追い出そうぜ!!」ということで・・・・
文久3年8月18日(1863年9月30日)
朝廷の公武合体派を取り込み、 長州藩(尊王攘夷派)を京都から追い出すことに大成功!
その名も「八月十八日の政変」というやつですね。
この一大イベントで、会津藩おあずかりの壬生浪士は警護にあたり
実績を残したご褒美として「新撰組」という名前を貰うのであります。

そんなわけで、新撰組誕生!!そした訳ですが、さっそく事件が起こります。
それはあまりに早速、新撰組の名前を貰ってから、おおよそ1か月後・・・・

新見さん切腹事件が起こります。
新見さんは「局長」という立場を逆手に
壬生浪士組としての役目を果たさず遊郭通いに没頭したり、
一般人にお金を強請ったりと文字通りの好き勝手。
同じく悪癖の多い芹沢さんさえ頭を抱える問題児でした。
そんな新見さん、
誰が切腹に詰め寄ったか、切腹の真の理由は何だったのか・・・・
問題児すぎて、何が切腹の本当のきっかけだったか不明だったと言います。
(京都の人々に新撰組が嫌われていた理由の一つに
水戸一派の手癖、女癖の悪さがあるようです。)

そして、そんな新見さん切腹事件を皮切りに
水戸一派は破滅向かいます。

当時、新撰組の局長(初代局長)は、芹沢鴨。
こちらの兄ちゃん、上にも書いた通り非常に曲者で
めっちゃ腕が立つ上に、アル中で酒癖も悪い・・・・
しょっちゅう揉め事を引き起こす上に
彼の率いる水戸一派も評判が悪く、
無理な金策に市中での乱暴事件に酒癖、女癖の悪さに苦情が殺到。
そしてその苦情を受けた会津藩から、
近藤さんは芹沢鴨の処分を言い渡されます。(朝廷から芹沢の逮捕命令が出た説もあり)

ただ、めっちゃ腕が立つ上に、アル中で酒癖も悪い・・・・
だけではもちろん筆頭局長なんてなれませんよね。
なんだかんだ、芹沢鴨は面倒見が良く、情に厚い部下に慕われる兄ちゃんでもあったため、
近藤さんは、暗殺メンバーを選びに選び
土方・沖田・山南・原田(藤堂・御倉伊勢武)をご指名します。

そして、あまりに強すぎる芹沢さんとは、まともに戦ってはとても勝てない。ということで
ベロベロに酔わせた後を狙う作戦を立てます。
(新撰組が“卑怯だ!”と言われることになった原因のひとつ、泥酔技がコレ)

9月16日あるいは18日。
新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開き、八木家での2次会コース。
チーム芹沢が泥酔したのを確認した後、作戦を決行です。

大雨の深夜、チーム近藤の暗殺メンバーは、まず平山(水戸一派)を暗殺。
続いて、芹沢と、同衾していた愛妾のお梅を暗殺しました。

事件は長州藩士の仕業とされ、
芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行い
20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を
郷里多摩の佐藤彦五郎へ送る等
しらじらしくも、頑張って隠ぺいしたけど
何故か全てバレているのが平成の世です。

そんな訳で
脱走、暗殺、切腹等で水戸派は一掃されてしまう訳ですが
そう、ここからが本番!
幕末という不安定な時代に踊らされる中、
主に忠誠に生きたおっさん達の話
命短し恋せよ幕臣☆新撰組物語本編のはじまりです。


命短し恋せよ幕臣☆新撰組物語本編

この本編〜命短し恋せよ幕臣☆〜は、
農民の若者が幕臣になるサクセスストーリーがはじまり
念願かなって幕臣になるも、1年位で散り散り殺されてるエンディングを迎えますので
ハンカチもしくは、鼻セレブを方脇に置き、読んでくださいね!

というわけで、水戸一派を一掃し
たなぼた?偶然?いや、策略ですよ?
何はともあれ、試衛館派が新撰組をひっぱっていく事になります。

新撰組には、厳しい厳しい局注法度がありました。
これは主に土方(試衛館一派)が考えたと言われており
水戸派を一掃するときに提示し、優位に動けるよう用意したものとも言われています。

この法度は、水戸派一掃が終わり
組織が整った後、全面的に適応されるようになりました。

***   ***   ***   ***   

一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為をしてはならない)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は許されない)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係してはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いをしてはならない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す)

***   ***   ***   ***   

要約すると「俺が思う武士っぽくないことしたら切腹しろよな!」です。
内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられていたこともあり、
土方は鬼の副長として、隊士たちから恐れられていきます。

ちなみに、
鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼりますが
内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名
その他は殆どが切腹や暗殺等の粛清絡みのものであった。
記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、
敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かったそうですよ。

っと!
話が脱線しました。

NEW新撰組になってからの初めての大仕事。
それは皆おなじみの池田屋事件です。

池田屋事件とは?
八月十八日の政変で逃げた尊王攘夷派(一部に過激派も存在)が幕府を潰そうと企て
その情報を新撰組がキャッチ!
過激派が話し合いをしていた池田屋に突入します。

亥の刻(22時頃)過ぎ、近藤隊は数名で突入し、戦闘。
20数名の尊攘派に対し、当初踏み込んだのは
近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名。残りは屋外を固めました。
屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱。
(沖田死因となる結核により吐血との言われがあるが
 この頃に結核を患った場合、もっと早くに亡くなる可能性の方が高く
 この時の不調は別のものという説がある。)

また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、
血液が目に入り戦線離脱した。

襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図ります。

裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに
土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。
これにより奥沢は死亡し、
安藤・新田も1ヶ月後に死亡しました。

望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、
追っ手に追いつかれ自刃。
同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書が、
2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、
事件前後の様子が明らかとなりました。

太刀や袴を失い
(普段から新撰組は本物の太刀を持ち、敵の刀を切断したり、刀に裂傷を与える鍛錬をしていた)、
同僚の石川潤次郎が現場で闘死していた事にも気付いていなかった事から
戦闘の激しさが偲ばれます。

新選組側は一時、近藤・永倉の2人となるが
土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、
方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。

9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げ
会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着したそうです。が
土方は手柄を横取りされないように、
一歩たりとも近づけさせなかったというから流石です。

この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、
続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20余名を捕縛。
この市中掃討も激戦となり、
会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出しました。

☆おまけ☆
桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため
一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話するという運の強さで、難を逃れます。
談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は、現場に駆けつけようとしたそうですが
大島友之允に制止されたため思い留まったと、小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されています。

そんな訳で、6月に池田屋事件で大活躍した新撰組は
8月開催の禁門の変の鎮圧にも参加します。

禁門の変とは?
様々な事件で尊王攘夷派の仲間を捕まえられた長州藩は京都へ攻め入るも、
幕府が「おい、お前らは京都にいれてやんねえぞ」と圧を掛け
話し合いは無理だな!と思った長州藩が「よし!無理やり入るぞ!」ということで
無理やり京都に入ろうとするも、幕府と新撰組の力により負けてしまいました。
おしまい。

ということで
池田やに続き、禁門の変でも大活躍した新撰組。
朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されます。
そんな噂のあるタイミングで行った、同年9月に第二次の隊士募集の結果
新選組は200名を超す集団へと成長してしまい
隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転することになります。

また、近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させます。
この伊東甲子太郎、容姿端麗で巧みな弁舌から、人望は高かく
明治維新の立役者にもなれたであろう逸材であったため
後に起こる油小路事件では、新撰組を責める声が多く残るのですが・・・・

ということで、
このまま油小路のお話をしたいところですが
先にこの人の死を書かねばなりません!!

山南さん死す!
伊東さんは熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かい人物だったのですが
新撰組は、伊藤さんと同じ北辰一刀流で、同じく文武両道キャラとして存在し
近藤さんの腕前や人柄に感服し、慕い、
試衛館の門人として行動を共にしてきた山南さん(伊東とは同門)を差し置き
伊東さんを山南さんよりも上席の参謀を新設。
破格の待遇で迎えいれ、山南の幹部としての立場を潰します。
そういった事が重なり、新撰組に居場所をなくしていった説
豚所移転問題等、近藤・土方と意見がくいちがった説、
怪我で戦えない体になっていた説
伊東甲子太郎に取り込まれ、気づいたときには仲間を裏切っていた事に耐えられなくなった説。
賢さゆえ幕府や新撰組の未来に絶望するも、仲間は裏切れず死ぬ道を選んだ説。
等色々ありますが
結局理由は不明のまま、元治2年(1865年)2月、
山南さんは「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませます。
新選組の法度で脱走は切腹とされていたので
近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けました。
沖田だけを派遣したのは、
弟のように可愛がっていた彼ならば山南も抵抗しないだろうという、土方の思惑によるもで、
大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻されます。
山南さんは、それさえも予想し、死を覚悟していたかのように
伊東や、試衛館以来の親交があった永倉からの再度の脱走を勧められるも断ります。
元治2年(1865年)2月23日切腹。
介錯は山南の希望により沖田がこれを務めました。

山南さんは土方と仲が悪かった(一方的に嫌われていた)という説や
本当は仲がいいが、仕事の便宜上、仲が悪い振りをしていたという説もありますが
その出所は噂の土方(豊玉)俳句のひとつ
 「水の北 山の南や 春の月」だと言われています。
春の月は土方の好きな季語で、それと山南さんを合わせているんだもの、
不仲は装っていただけなんだよ・・!!という人
いやいや、これはただの俳句で、山南さんは関係ない。という人も
山南さんの謎多く早すぎる死は、ある一部のマニアの間で
とても良いおかずになっているようですよ。

さて

新撰組幹部たち、試衛館時代からの仲間にとって、大切なメンバーを失いつつも
新撰組は長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制
(一番組〜八番組及び小荷駄雑具)に改組し、「軍中法度」も制定!
準備万端!うきうきわくわく!と命令を待ちますが
が新選組に出動の命令はなくイライラを募らせます。
そんな最中、
慶応3年(1867年)3月、
伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成し、新撰組を脱退します。
先程も書いたように、伊東甲子太郎はとても賢く、行動力もあり
御陵衛士メンバー選びにも余念がありませんでした。
そもそも、新撰組を脱退したら切腹なのでは?と、思われますが
そこさえもうまく潜り抜けるほどの策士。(何をどうしたかは割愛)
この御陵衛士メンバーには、試衛館一派で、最年少幹部の藤堂平助も含まれ
試衛館からの仲間が、またひとり、近藤さんの元を去っていくのです・・・・

しかし、悲しいことばかりではありません!
同年6月。新撰組はついに幕臣へ取り立てられるのです!!
SUCCeSS!!!
おめでとう!近藤さん!!!

しかし、そこから5か月後の6月。悲しき油小路事件が起こります・・・・

油小路事件とは?
徳川幕府が朝廷に政権を返した頃
策士!伊東甲子太郎が
策士!土方の命によりスパイとして御陵衛士に潜らせていた齋藤一に
近藤勇の暗殺を命令します。
この時を待っていた!!!と、新撰組は勢い立ち
秘儀!酔っ払わせて暗殺!を炸裂。
新撰組は、酔っ払った伊東さんを、帰り道暗殺します。
この時、伊東さんは「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わっており
新撰組名言集のひとつとして有名です。

更に、残りの御陵衛士も暗殺すべき。と
伊藤さんの死体を油小路に放置します。
伊東の遺体を奪還するため、罠であると知りつつも、藤堂平助含む同士7名は現場へ向かい
待ち伏せていた40名以上の新撰組と戦います。

試衛館からの仲間であり、まだ若い藤堂の身を案じた近藤・土方ペアは
油小路へ向かう隊士で、同じく試衛館からの信頼する仲間である永倉に
藤堂だけは上手く逃がすよう命じるも、
事情を知らない新撰組隊士に斬られ、藤堂は命を落とします。
その後、藤堂ら4名の遺体は、御陵衛士残党をおびき出すための囮として、
数日(3、4日ほど)の間、道端に放置されることになります。


逃がすことを決める程の仲間を誤って殺させてしまった上、
このような処置をとるしかなかった近藤・土方ペアの立場を考えると胸熱です。
が、なにも無念を抱えるのは新撰組だけではありません。
仲間を殺され発狂した、御陵衛士の残党、
篠原泰之進、富山弥兵衛、加納道之助、阿部十郎、佐原太郎、内海次郎らに
近藤さんが右肩を撃たれ、重傷を負う事に・・・・

近藤さんは、局長である自分がお荷物になるわけにはいかないという気持ちと
土方からの、戦の指揮は俺に任せ、近藤さんは治療に専念してほしい。という申し出におされ
当時、結核を患っていた沖田総司と共に
最先端の医療をオランダ軍医に学んだとされる、松本良順の治療を受けます。

そんな最中、庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれ、死者を出す事件が起き
金で集めた浪士を暴れさせた薩摩藩と、
市中を警備する庄内藩との小競り合いが頻発。
江戸の薩摩藩邸が焼き打ちされる等の事件がきっかけとなり
鳥羽伏見の戦いが起こります。

鳥羽伏見の戦いとは?
上のような事件の勃発に加え、新政府軍は政権に徳川氏を加えず、旧幕府軍はお怒り爆発。
旧幕府軍は、新政府軍戦いを挑みます。
しかし!
刀や槍のみで戦おうとした旧幕府・新撰組は
大砲や銃など最新鋭の武器を従えた新政府軍にボロ負け。退却することになります。
また、この戦いで
試衛館一派の井上源三郎こと源さんが敵の銃弾を腹部に受けて戦死します。
一部では甥の井上泰助らをかばおうとしたという説もあり
責任を感じた甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとするも、
あまりに重かったため、
仲間から諭され戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬したと言われています。

試衛館メンバーの中でも
近藤、土方がとても信頼していた人物でもあった源さん。
山南さん、藤堂に続き、失いたくない人物を、また一人失う結果になりました。
ちなみに、
鳥羽伏見の戦いは1869年6月に終結する「戊辰戦争」の初戦ともいわれてま〜す。

さて、ここから新撰組のデッドヒートはスピードを上げます。
この、鳥羽伏見の戦いをみて
戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、新撰組は戦力が低下するのです。
しかもそんな中、甲州勝沼の戦いがはじまります。

甲州勝沼の戦いとは?
鳥羽・伏見の戦いの後、江戸城に戻ってきた近藤勇らは、勝海舟に
「甲府に行き、新政府軍を足止めしろ」と命じられます。
上手く行ったらその城、新撰組にあげちゃうよ!というエサ付きで・・・・。
(一説によると、江戸城明け渡しをスムーズに行いたかった勝海舟が、新選組を江戸城から遠ざけるために命じられた、ともいわれている。)
新選組は、甲陽鎮撫隊と名を改め、
近藤さんは「大久保剛」土方は「内藤隼人」と名前を変え甲府へ向かいます。
が、しかし
甲陽鎮撫隊は新選組のメンバーだけで構成されていたわけではなかったため
やる気がない人たちも多く、近藤さんはは率いるだけでも一苦労。
隊士たちの機嫌を取るために道中で大名行列ばりの遊びをしたり
天候の悪化、沖田の病状の悪化も重なり
甲府到着が予想よりはるかに遅れてしまいました。、

しかも・・・・
その間に新政府軍が、3000の兵を率いて先に甲府城に入ってしまい
甲陽鎮撫隊の中から、焦って脱走する人が続出します。
近藤さんは、「援軍が来る」とうそをつきながら、なんとか脱走を防ぐも
3000対121という劣勢。しかも、近藤さんの嘘がばれ、味方はバラバラ。
新政府軍の圧勝で幕を閉じるのです。

この時、近藤さんは怪我の影響で以前の様に戦えないもどかしさ
次々に脱退していく隊士たち、やる気のない新参者に、失った古くからの仲間たち。
それでも戦い続けなければならない状況で
八王子で江戸退去を宣言し、会津での再起を考えるのですが・・・・
原田左之助、永倉新八らと意見が対立し、
新選組立ち上げから行動を共にした2人と別れることになってしまうのです。


近藤さん死す
原田左之助、永倉新八の脱退後、残す試衛館からの味方は土方、沖田のみとなった近藤さん。
甲府での戦いで減った兵力を補充するため、
江戸で再び隊士を募集し総勢227名まで回復した甲陽鎮撫隊(新選組)は、
今度は会津を目指して北上を開始します。

甲陽鎮撫隊が流山に屯所を構えた頃、
東征を進める新政府軍はすでに江戸板橋宿(現在の東京都板橋区)に到着。
宇都宮城占拠を狙う会津・桑名の軍勢に対抗するため
糟壁(かすかべ=現在の埼玉県春日部市)に入ります。

東山道先鋒総督軍大軍監・香川敬三は
東征軍の背後を甲陽鎮撫隊が襲撃する計画があることを知ると、
鎮撫隊の流山の屯所を急襲して完全に包囲します。

もはやこれまでと悟った近藤さんは自刃することを決意しますが、
土方に押しとどめられ、
大久保大和の変名のまま、板橋の新政府軍総統府に出頭することになります。
(近藤勇の捕縛の状況は資料によって異なり、新政府軍に捕縛されたともいわれています)。
土方の頼み通り、大久保剛の名を貫いた近藤さんですが
新政府軍に寝返った、新撰組元隊士。かつ、伊東甲子太郎率いる御陵衛士だった
加納鷲雄、清原清に近藤であると看破され、
慶応4年4月25日(1868年5月17日)
近藤さんは、坂本竜馬暗殺の疑いで処刑されることになります。
新選組局長として最後まで江戸幕府に尽くした近藤さんの首は
処刑後、塩漬けにされ、京にて晒され続け、その後、行方が分らなくなります。

※処刑に関しては諸説あり
自分が囮になり、朋友である土方や部下たちを逃がすため
時間稼ぎのために処刑の道を選んだとも言われています。

沖田のその後
甲陽鎮撫隊に参加するも、病状の悪化で中途で離脱し江戸に戻ったあと
幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われていた沖田。
兄として、先生として、局長として長年仕えてきた近藤の力になるどころか
病に倒れ、迷惑を掛け、足を引っ張り続けた。と悔やみ続け
その無念を知るまわりの配慮により
近藤の死を知らされないまま
近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)沖田が病死します。

土方のその後
近藤さん投降後、
土方は近藤さん助命嘆願のかたわら
新選組を山口二郎(斎藤一)に託して会津へ向かわせます。
(齋藤さんは、御陵衛士にスパイとして潜り込んだのち
仕事を終え新撰組へ戻るため、隊のルール等を掻い潜るべく
山口二郎に名を変えています。)

島田魁ら数名の隊士のみを連れ
大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流する頃
江戸城が敵方に渡ります。
近藤さんも亡くなり、土方は北へ北へと戦場を求めて進んで行きます。

宇都宮城の戦いでは1度は勝利しますが、会津戦争(福島県)で大敗。
土方自身も新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、
本軍に先立って会津へ護送されることとなります。
会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、
この間に近藤の墓を天寧寺に建てたと言われています。

全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力しますが、
8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。
土方は援軍を求めて庄内藩に向かうも、
既に恭順体制の庄内においては入城さえ叶いませんでした。

その後、土方は会津から仙台へ向かうことを決め
同じように戦列を離れた大鳥圭介に対して
山口(斎藤)さんたちは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えましたが
仙台へ向かう土方たちと
城下に残る山口(斎藤)さんたち、新選組は分裂します。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。
榎本と共に奥羽越列藩同盟の軍議に参加しますが
間もなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、
同盟藩が次々と新政府軍に降伏した後
土方は、戦う地がある限りどこまでも戦うことを決意します。

土方は、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船。
榎本らと共に10月12日仙台折浜(現・宮城県石巻市折浜)を出航し、
最後の決戦後、蝦夷地に渡ります。

箱館戦争とその最期
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、
歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かいます。

新選組は大鳥圭介総督の下で本道を進みますが
島田魁ら数名の新選組隊士は常に土方に従っていたと言います。

箱館・五稜郭を占領後、
土方は額兵隊などを率いて松前へ進軍。
松前城(福山城)を陥落させ、残兵を江差まで追撃しました。

この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、
軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かうのですが、暴風雨に遭い座礁。
江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、
そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、
今でもその「嘆きの松」が残っているそうです。

江差を無事占領した歳三は、一度松前城へ戻り、
榎本が各国領事を招待して催した
蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋します。

その後、幹部を決定する選挙が行われ、
榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立。
歳三は幹部として陸軍奉行並となり、
箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねたそうです。

箱館の地でも土方は冷静で
箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も1人沈黙を保ち、
「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わっています。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、
3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、
土方は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。
しかし作戦は不運続きで失敗し多数の死傷者が出るのです。

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。
土方は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦します。
その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、
包囲したと思わせる行動をとったので
自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺しますが
これに対し土方は
「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と
冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせたそうです。

また、戦いの合間に土方は部下達に自ら酒を振舞って廻り
「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言い
部下は笑って了承する等
京での「新選組鬼の副長」の欠片は微塵もなかったとも言われています。

土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。
しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、
やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還します。

そして明治2年(1869年)5月11日、
新政府軍の箱館総攻撃が開始され、
島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、
土方は救出の為僅かな兵を率いて出陣します。
新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て
「この機を逃すな」と大喝、
箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、
「我この柵にありて、退く者を斬らん」と発します。
土方は一本木関門を守備し、
七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執ります。
しかし、その乱戦の中、銃弾が腹部に命中し土方は落馬、
享年35歳。
近藤さんの死後1年後の出来事で、
皮肉にも盟友・近藤さんと同じ歳でした。

敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説ですが
蝦夷共和国の閣僚8人で戦死したのが土方のみ。という事もあり
降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もあります。
大野が急いで駆けつけた時にはもう土方は絶命しており
遺体は小芝長之助らに引き取られて、
他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ、
未だに場所は特定されていません。

また、死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、
「日野の家族の元に届けてくれ」と命じます。
それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否。
それを聞いた土方は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と
鋭い眼光を向けて言い放ち、その気迫に圧されて市村は首を縦に振ります。
(その後市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に無事届け、
その土方の手紙には「使の者の身の上頼み上げ候」と書かれていたため
市村は大垣に帰るまでの約2年間、その土方の遺言通りに、彼は佐藤家の保護を受けています。)
不器用ながらも情に厚い土方らしいエピソードですね。

土方の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは
一時勢力を盛り返していたのですが、
土方という、実質、新撰組のトップを失った後崩れ、
大野の必死の指揮にもかかわらず総崩れになり
食糧や水も尽き、
榎本軍が降伏し、新撰組が事実上解散となったのは
土方の死後6日後のことでした。

最後に
最初に書いた通り、新撰組は悪とみなされていたため
遺族は遺品を持つことも、当人の墓を建てることも当時は許されませんでしたが
数少ない新選組の生き残りである永倉さんが新選組の顕彰につとめ、
新撰組に好意的だった松本良順と共に近藤、土方の墓(寿徳寺境外墓地)を建立しています。

ちゃんちゃん

※※※   ※※※   ※※※

おまけ
(新撰組ツアーの時の写真せっかくなのでちょこっとアップ)



沖田総司が幼少の頃、姉と通ったと言われるとんがらし地蔵。
当時、
囲炉裏や竃など家の中で火を燃やすことが日常的であり、
その煙によって目を痛めることが多かったため、
薬効のある唐辛子を供えたことに由来するそうです。




高幡まんじゅう松盛堂 本店
やたら土方おしのお土産が多かった。
それ土方関係あるの?と、深く考えないでも
とりあえず土方の写真をプリントしたパッケージの商品多数。
そんなことをしなくてもスタンダードに美味しい高幡まんじゅうとの評価あり。




日野宿本陣にて




お昼ごはんは日野館で蕎麦。
以前は新撰組、日野宿本陣(天然理心流佐藤道場跡)にありましたが
大人の事情で現在の場所に移転。
土方歳三の義兄で、日野宿の名主であった佐藤彦五郎の家に
代々伝わる蕎麦の味を今に伝える蕎麦屋さん。




石田寺。にて、土方さんの墓。
まわりはほとんど土方家墓ばかり!笑
トラブル防止のためか、歳三の墓はここ!!と、看板がありました。笑



最後まで読んだあなたはとてもすごいです。
おつかれさまでした。

またね。




2018.06.06 Wednesday  僕らのゲシュタルト崩壊Part.1〜こっそりときめくやつ、せいだいにときめくやつ〜

4年前の夏に、ポレポレで観た
どうしようもなく、どうにもならない映画を思い出した。

映画を観終わった後は亀屋のコロッケを買って
母校の屋上でそれをついばみながらビールを呑んだ。
映画館に行く前にスイカを食べていた事を思い出して
コロッケとスイカってお腹痛くなるんだっけ。
あれは天ぷらだったかしらね。なんて
そんな、どうしようもないことを思った事を覚えている。

それ以外のどうでもいいことを、
まだまだ、たあんと、覚えている。

※※※   ※※※   ※※※

そいつは、めをとじるとやってくるぜ、きをつけろ!!!
1分間に発する単語のかさがふえて
自分の中の何かが勝手に切り替わる。
そしていよいよやってくるのはお留守番ターン!!
いくぜ、わたしの中のコロポックルズ!!

22958回目のメンタルのたびにでるのだ!!!!

※※※   ※※※   ※※※

立ち食い蕎麦をよりどころにし
新撰組にまつわる書物を買いあさり
小汚い居酒屋で煙草をふかしながら金宮を飲む。
いよいよ孤独なおっさん像に近づくばかりなりけり。

※※※   ※※※   ※※※

「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」
脱線して今このあたり。

※※※   ※※※   ※※※

金曜日
バイト先のお客さんたちと高円寺のキャバクラに行った。
うわ〜!!たのしい〜!!かわいい〜!!いいにおーーーい!!
人生初キャバクラたのしい!!これはたのしい!!と、大変お気にめした私。
あまりにたのしかったので、そのまま勢いづいた我々は
阿佐ヶ谷のガールズバーに行く。
酔っ払いのアラサー&アラフォーズに怖いものはないのだ。
ところがどっこい、そこはなんともアカン空間・・・。
こ・・・これはないわ・・・と、みんなで言い合い
スナックへ梯子し、気づいたら良くわからない居酒屋から
駅のトイレにおりましたとさ・・・・。

もう二度と昼まではしご酒はしないと誓った土曜日の夕方です。

※※※   ※※※   ※※※

何も得ることなく何かを失うその感じが
僕はとても好きだ。

※※※   ※※※   ※※※

入院まであと2か月を切ってしまったことに驚愕。
なぜだ!あんなに綿密に入院までのサクセスストーリーを考えていたのに!!
な・・・なんてこと・・・・。

とりあえず、こんな事を書きたかったがために
今日のブログを書き始めたわけではないのに
こんなことになってしまったよ。

とほほ。


またね。




<< / 2 / 103 / >>

Profile

Archives

admin